待つか、進むか、諦めるか。

地震のあと、数日は友人宅でお世話になっていましたが、断水も続いていますし、いつまでもお世話になるわけにもいきません。
そして、あと10ヶ月は開かないと報道された街の中心部で、巽をもう一度始めることができるのは、きっと来年のことになるでしょう。地震をきっかけに、巽をもう終わりにするという選択肢もあったのでしょうが、私たちは「巽を再開する」ことしか頭にありませんでした。
それは、あれほどの大きな地震でも、ほとんど被害のなかった巽の建物がそのまま残っていたからというのが大きかったと思います。立入禁止さえ解除されれば、あそこでもう一度店をOPENできる。という希望がありました。それがいつになるかは分かりませんが、とりあえずは、「待つ」という選択をすることにしたのです。

そんな時、「緊急帰国便」のチケットが格安で販売され、スタッフの中には、一時日本へ帰国することを決めた人もいました。当時の巽のスタッフは、子供のいる家族を養っていかなくてはいけない人が二人いて、彼らはクライストチャーチにこのまま残ることを決めていました。私たちは、スタッフ全員を集め、「巽クライストチャーチは、一度ここで解散しよう」という決断を下したのです。
OPENから3年が過ぎ、やっと経営も安定し、これからという時でした。そして、巽で仕事をしながら永住権を目指していたスタッフもいました。本当に、ここで解散しなければいけないことが、どれだけ悔しかったことか。

建物は、立入禁止区域内外にかかわらず、赤・黄・緑の3種類のステッカーで分けられていました。赤は立入禁止。黄色は、荷物を取りにいく場合だけ立入可能。そして緑は安全な建物です。
巽も、自宅も、両方とも黄色のステッカーが貼られていました。それは、建物自体は無事でも、運悪く、隣の建物が倒壊の危険があったからです。つまり、隣の建物が取り壊されるまでは、店も自宅も緑のステッカーにはなりません。そして、取り壊し作業がいつ行われるのかもまったく検討がつかない状態でした。とにかく「待つ」しかないのです。そして、住むところもない私たちは、とりあえず一度日本へ帰国して、そこで、状況が進むのを待つことに決めたのです。

ところが、私たちは、ほとんど着の身着のままで家を出てきたので、パスポートすら持っていませんでした。そこで、立入禁止の我が家に、日本帰国に必要なものを取りに行きたいと、バリケードに立っている人に訴えました。すると、「あっち側の人に聞いてみて」と案内され、向こうの方にいた、決定権がありそうな人に再び聞いてみると、答えはやはり「NO」。
でも、私たちもここで引き下がるわけにも行かず、「住むところがないので、日本に帰りたい。チケットもある。だけどパスポートが家にあるので取りに帰りたい。パスポートを取るだけですぐに戻る。しかも、家は、あそこに見えているすぐそこの白いアパートなので、10分で戻る」と、切実に訴えたのです。
私たちの必死の訴えに、警察官付き添いで、なんとか家まで帰れることになりました。警察の人に家の外で待ってもらい、私たちは、スーツケースに必要なものを詰め込みました。一番大切なのは、携帯電話の充電器とパスポート。次にいつ家に帰ってこれるか分かりませんので、大切なものを物色したかったのですが、いざとなると「大切なもの」がなんなのか、とっさに判断することは難しく、結局は、もう何日も同じ服を着たままでしたので、日本に持っていく洋服やら、普段使っている化粧品やら、あとはその辺の必要そうなものをてきとうに詰め込みました。
そして、日本に帰ってスーツケースをあけてびっくり、なんとパジャマの上だけが3枚もはいっていました。人間て、慌てると判断力が鈍るものなのですね。
しかしこれで無事に、日本へ一時帰国を果たすことができました。

実は、巽をOPENしてからの3年間、日本へは一度も帰国していませんでした。ですので、帰国は結婚式以来ということになります。本来であれば、手土産のひとつも買って帰りたいところではありますが、そんな状況ではなく、広島に帰る主人は大阪行き、東京へ帰る私は成田行きの便と、ふたりはそれぞれ別の便に乗るために、オークランド空港で別れました。
主人は、広島で1週間過ごし、そのあと東京に移動してくることになっていました。巽を再開する気満々のわたしたちは、これを機に、東京でいろいろ買出しをするつもりでいたのです。

ところが、3月8日に無事に東京についた私は、久しぶりに家族と再会し、やっと落ち着きを取り戻した頃、3月11日、東日本大震災を東京で体験しまったのです。

第9回 「NZで被災し、日本でも被災」

 

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