”好奇心とクリエイティビティを引き出す「伝説の授業」採集”

すごい表題ですが、これは、「宣伝会議」が運営する「Adver Times」というサイトで、倉成英俊さんという方が書かれているコラムのタイトルなんです。
内容はというと、そのままで、好奇心とクリエイティビティを引き出す「伝説の授業」を紹介しているコラムなんです。
なんと、そこに、わたしが中高6年間通った学校が紹介されていて、そのコラムを読むにつけ、やっぱり我が母校の教育方針と環境は、他にはないものだったなぁ。と改めて思い、ほんの少しだけ皆さんにも知って欲しいと思いました。(多くの方にはどうでもいい話ですが、わたしにとっては、今のわたしの原点がここにあると思っています。)

このコラムで紹介されているのは、「働き方改革の波が起こった瞬間に、これは私がやらなくてはいけないことだと、まず虎ノ門ヒルズの600人入るホールを個人で押さえ、いろんな人を巻き込んでカンファレンスをいち早く開催、一般社団法人at Will Workを立ち上げた、藤本さんというすごい方(コラムより抜粋)」
その藤本さんに、「藤本さんって、なんでこんな風になったんですか?なんの影響ですか?」と聞いたところ、「親御さんの影響」とかいう返事が返ってくるかと思いきや「通っていた学校の影響ですかね」という答えが返ってきて、それでその学校の教育がどんなのものなのかと興味を持ったというのが、このコラムのはじまりなんです。

このコラムでも紹介されているのですが、なによりも我が母校を象徴する第一のものは「体育祭」。この盛り上がりは半端ないのですが、まずは、中一から高三までの学年対抗であるということ。下の学年は当然上の学年には勝てないし、上の学年は絶対に下の学年に負けられないから、みんな必死。毎年高三が優勝して有終の美を飾るのですが、稀に、高3が高2に負けてしまうときもあるんです。それが、我が学年「47期青」でした。別に、高2も、高3を倒してやろうなんて思っているわけではないんです。でも、少なくとも下の学年には負けられないから、全力で戦ううちに、高3を凌ぐ成績を残してしまったというわけです。あの時の高3体育祭の涙は今でも忘れられません。

優勝できずに泣き崩れる私たちに、下級生たちが駆け寄り励ましてくれたシーン。感動でした。

この体育祭がどのくらい本気かというと、スポーツがあまり得意ではない生徒でも、玉入れや綱引きなどの競技に参加するわけですが、玉入れで朝練とか昼練とかあるんです。綱引きなどは、学年全員揃いの地下足袋を青く染めて挑みました。女子校ですが、各学年の応援団は本当に格好良かったし、学年ごとの応援交換は、美しさと迫力を兼ね備えた芸術の域でした。朝練、昼練、放課後練と、みんなで力を合わせてプロジェクトを遂行していく工程は、6年間で、どんどんパワーアップしていきました。なにしろ、中一の時は、なにがなんだか分からずに先生主導でしたが、2年目からは、実行委員や応援団が力を合わせ、先生の協力を得ながら、企画から練習スケジュールまでをすべて組み立て、当日の晴れ舞台に向けて生徒全員で一丸となって、全力で練習するのです。ほんと、あれは凄まじい。サボる子なんて一人もいない。みんな同じ目標に向かって突き進むのです。だからこその、その完成度の素晴らしさ。同級生では、芸術系、クリエイター系の仕事をしている子がとても多いのですが、それは、こういった中高6年間の教育がバックグラウンドにあるのかもしれませんね。

応援交換。青の学年だったので「青のヴィーナス」を美術部が中心となって描きました。すごい出来栄えです。
応援交換では、途中で上着を脱ぎ、腕を使ったパフォーマンスで魅せます。

ちなみに、6学年にはそれぞれ「色」がつけられていて、私は「青」でした。学年はすべて「色」で呼ばれていて、高校3年生が卒業すると、その色は次の中学一年生に引き継がれます。実は、私の母も、同じ学校を卒業しているのですが「17期青」でした。中学の入学式の時には、母の同窓生の娘たちを紹介されましたが、同学年に4人もいました!ちなみに、上の学年の赤や、下の学年の白にも、母の同窓生の娘さんたちが在籍していて、みんな「自分の母校に娘を入学させたい」と思うのです。実際、わたしの同窓生も、同じく娘さんが母校に通っていたりします。できれば同じ色「青の学年」に入って欲しいとみんな思いますが、そういうわけにも行きませんよね(笑)そして、母の昔の担任の先生が現在の校長先生だったり、わたしの昔の担任が現在の校長先生だったりするのです。だから、いつ母校に遊びに行っても、知ってる先生がいて、まさに「ホーム」という感じですよね。学校のすぐ近くには、同窓生がカフェを開いていて、なにかとそこに同窓生が集まります。わたしが日本に帰国したときもそうでした。本当に、「あの6年間にわたしは作られた」と、コラムに登場する藤本さんと同じことを思うのでした。

我が母校の変わった教育方針は、体育祭だけではなく、コラムでも触れられていますが、成績表がありませんでした。学期ごとに先生との面談があって、各教科についてのフィードバックが口頭で伝えられます。わたしはいつも、各教科の先生から「注意力散漫」と面白いくらいに同じコメントをいただいてました(笑)
今思い起こせば、入学試験も普通ではなかった。中学入試が集中する2月1日2日3日の3日間を通して行われるので、併願はほぼ不可能。みんな第一志望として受験してくるのです。そして毎日、筆記試験の後、自分の回答用紙を前にした先生との面接。たとえ答えが間違えていたとしても「どうしてこの答えになったのか」と1つ1つ丁寧に聞いてくれるのです。そして、道筋を示して、わたしが正しい回答にたどり着けるのを見届けます。こんな入学試験ってあります?3日目は作文。テーマが与えられて、それについて書くのですが、面接では、その内容について、細かく質問されます。「どうしてそう思ったの?」「そこから何を学んだ?」「次はどうしたい?」と。入学試験からして「自分で考える力」が試されるのです。これを、現代の私立中学でやるならまだしも、35年前の入学試験でやっていたのですから、我が母校の、この教育方針の歴史は、とても長いのです。そういえば、あの当時から、帰国子女の受け入れを積極的に行っていたので、海外での生活を経験したことのある同級生も数多くいて、「海外」へ気軽に目を向けることができる環境でもありました。

私は、勉強は得意ではありませんでしたが、「面接」と「論文」は得意分野で、就職試験においても、「自分で考える力」を身につけることができた私は、どんなテーマを与えられても、画一的な回答ではなく、わたし自身の考えをその場で自信を持って発言することができ、特に集団面接などでは他の学生に負ける気はしませんでした。それは、この時の6年間で培われたものだと思っています。(補足すると、わたしは英語が大の不得意分野で、最後はだいたい英語で落とされました。。。)

コラムのインタビューの中で「その学校で藤本さんが学んだことはなんですか?」という質問に対しての、藤本さんの答えを、以下に引用させていただきます。

「社会は公平ではないけれど、公正な場はありますよね。チャレンジする機会は平等で、努力次第でチャンスを掴み取ることはできる。
だから、この学校で、自分から手を上げることを学べて良かった。やりたいですという意思表示を尊重してもらえて、やりたい人がやる。そして、やりたい人を全力で応援する。みんながリーダーじゃなくて良くて、みんながそれぞれの役割を果たして結果を出す。
どうしたい?どう思う?とすごく聞かれて、こうしなさいと言われないんですよね。私はどうしたいんだろうと考える瞬間が多い学校でした。
そしたら。私みたいに。こうなる。笑」

たぶん、わたしの同窓生の多くが、ほかの学年の卒業生の多くが、みんな藤本さんとまったく同じことを思いながら、このコラムを読んだに違いありません。

本当に、たくさんのことに挑戦させてもらいましたし、その環境がそこにはあって、それを見守ってくれる先生がいました。あの時は「当たり前」とおもっていたことが、良い意味で「普通ではなかった」とあとから知りました。
わたしは、中高6年間、本当にダメな子で、こんなに良い環境の学校に通わせてもらっていたのに、そのことをまったく分かっていませんでしたし、無駄に過ごしてしまっていました。正直もう一度人生をやりなおせるなら、中高6年間をやりなおしたいと思っているくらいなのですが、時すでに遅し。
それでも、今のわたしの原点は、あの学校で学んだことで、あの学校を選んでわたしを入学させてくれた母には、本当に感謝しています。そして、わたし自身、「良い意味で普通ではない人」でありたいと思うのです。
わたしに娘はいませんが、娘がいたら、やっぱり我が母校に娘を入学させたことでしょうね!

最後に、このコラムのリンクを以下に貼らせていただきますね!

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